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MEETS DUO vol.2

1月29日 (月)

MEETS DUO

山内テツ(b,voice) 嶋田吉隆(ds,vo)

 

*山内テツ by wikipedia

1968年にマイク真木のザ・マイクスに加入して音楽活動を開始。ミッキーカーチス&サムライのメンバーとして海外遠征を経験。麻生レミのバック・バンドなどで活動。

1971年4月、来日したフリーのポール・コゾフ(ギター)、サイモン・カーク(ドラムス)とスタジオで出会い、意気投合して渡英。フリーはまもなく解散し、山内はコゾフ、カーク、ラビット[注釈 1](キーボード)と、コゾフ・カーク・テツ・ラビット名義の同名アルバム『コゾフ/カーク/テツ/ラビット』(1972年)を制作した。

1972年2月、フリーはコゾフ、カーク、ポール・ロジャース(ボーカル)、アンディ・フレイザー(ベース・ギター)のオリジナル・メンバーによって再結成されたが、まもなくフレイザーが脱退。山内は後任ベーシストとして彼等に迎えられた。フリーの再結成には薬物摂取癖に苦しむコゾフを救うという目的があったが、結局コゾフは活動に支障をきたして離脱。残ったロジャーズ、カーク、山内はラビットを迎えて、ロジャースがギタリストを兼任。彼等は7月にエマーソン・レイク・アンド・パーマーとのジョイント・コンサートで2度目の来日を果たし、山内も他のメンバーと共に22日に後楽園球場、24日に阪神甲子園球場で第一部ステージに登壇。

日本で凱旋ライヴを行なった。同年10月、彼等は新作アルバムの制作を開始、翌1973年1月にアルバム『ハートブレイカーズ』を発表。山内が作曲に参加したシングル「Wishing Well」は全英チャート7位(Music Week)を記録した。

1973年の後半、ロニー・レーンの後任としてフェイセズに加入。作曲に参加したシングル「You Can Make Me Dance, Sing Or Anything 」[2]が1974年に全英チャート12位(Music Week)のヒットを記録している。1974年2月のフェイセズの初来日公演で、彼にとって二度目の日本での凱旋ライヴを行なった。

山内がイギリスで活動するにあたって、当初はイギリスのミュージシャンらが所属するユニオンに加入できなかったので活動が制限されそうになったが、マスコミとファンによる支援の声が後押しし、問題解決へとつながった。

1975年にフェイセズが解散すると帰国して、山内テツ&グッド・タイムズ・ロール・バンドを結成しライヴ・アルバムを発表。その後は日本国内でソロ・アルバムのリリース、クリエイションに加入するなどの活動を行なった。1985年にはフリー・ジャズのドラム奏者、羽野昌二と共にOpe Bandを結成し、1990年まで活動した。その後も羽野と共に、アルバム『デア・デヴィル』(1992年)、ヴェルナー・リュディのアルバム『気』(1996年)に参加している。

2011年以降は表立った音楽活動を行なっておらず、フェイセズ再結成への参加やメディアへの取材対応も一切断り、家族と共に静かに幸せな生活を送っている。

  <盟友>

/嶋田吉隆 / Yoshi Shimada(Drummer, Percussionist, and…)

葛飾区柴又生まれ。藤沢市鵠沼育ち。4歳でピアノを始め、13歳で独学でドラムを始める。17歳で山内テツバンドのドラマーとしてプロデビュー。以後、ゴダイゴ、CHAR、TENSAW、カルメン・マキ、喜多郎、遠藤賢司、他数々のアーティストと共演。91年の渡米後も、R&Rの大御所BO DIDDLEYのドラマーとして世界中をツアー。2001年東京Blue Note公演の為来日。その他、CHUCK BERRY、DR. JOHN、EDGAR WINTER、PHOEBE SNOW、etc.と共演。 2003年帰国後はCHAR、マイク眞木、矢沢永吉、他数々のアーティスト達と活動の傍ら舞台音楽も手がけ、常にその活動の場を拡げている。

 

開場:18:00  開演:19:00

 当日:4000

(no smoking!)

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